平井 希昌の生涯
平井 希昌の生涯
唐通事平井家10代目
唐通事平井家10代目

正四位勲三等

維新への澪標 表紙

維新への澪標 奥付
維新への澪標 : 通詞平井希昌の生涯
平井洋 著 「新人物往来社」
唐通事の任務
1. 唐人関係の通訳業務
2. 来航唐船の対応管理
3. 交易業務の管理
4. 唐人・唐館の秩序維持
5. 唐船風説(海外情報)の聴取・報告
6. 信牌(唐船の貿易許可書)の発給
1. 唐人関係の通訳業務
2. 来航唐船の対応管理
3. 交易業務の管理
4. 唐人・唐館の秩序維持
5. 唐船風説(海外情報)の聴取・報告
6. 信牌(唐船の貿易許可書)の発給
近世の長崎は日本で唯一、中国・オランダとの貿易の窓口として繁栄を極めた。それを支えたのが唐通事と蘭通詞たちであった。
彼らは長崎奉行所の地役人として通訳業務に携わるが、唐通事は貿易管理の職も担った。唐通事は基本的には、長崎在留の唐人(中国人)を起用し、その職は世襲とされた。
貿易の拡大に伴い唐通事会所が設置されるが、その規模の大きさは世界的にも稀なものであった。
唐通事のもう一つの大きな役割は、幕府にとって極めて重要な海外情報の収集で、彼らはその第一線で働いた。
また、中国事情に通じた彼らは、長崎における中国文化の普及と定着の橋渡し役でもあった。やがて幕藩体制が崩壊すると通事制度も終結した。
その後の新しい時代の波の中で、彼らの多くは持前の能力を生かして、外交、教育、経済などの分野に進出して活躍することになる。
彼らは長崎奉行所の地役人として通訳業務に携わるが、唐通事は貿易管理の職も担った。唐通事は基本的には、長崎在留の唐人(中国人)を起用し、その職は世襲とされた。
貿易の拡大に伴い唐通事会所が設置されるが、その規模の大きさは世界的にも稀なものであった。
唐通事のもう一つの大きな役割は、幕府にとって極めて重要な海外情報の収集で、彼らはその第一線で働いた。
また、中国事情に通じた彼らは、長崎における中国文化の普及と定着の橋渡し役でもあった。やがて幕藩体制が崩壊すると通事制度も終結した。
その後の新しい時代の波の中で、彼らの多くは持前の能力を生かして、外交、教育、経済などの分野に進出して活躍することになる。
伊藤博文より平井希昌宛の手紙

明治4年11月に岩倉使節団が欧米へ行った時、大久保利通が日本国内でも牧羊事業を取り入れる事を考えて(ヨーロッパの軍服)、カリフォルニアを訪問した時に牧羊家のアップ・ジョンズ(43歳)に相談、依頼して、日本に来て牧羊事業を一緒にやらないかと打診した。
明治7~8年にこの話が、お雇い外国人のアメリカ人リジェントル(和名:李仙得)経由で話がまとまった時、平井希昌が契約の条件等を大久保利通との間に入りまとめた。(国立公文書館に記録あり)
利通より希昌宛ての手紙があり、その後、内務省勧業寮で下総牧羊場として羊毛原料確保の為スタートした。
その後、明治11年8月30日の深夜に3人組の強盗が、下総牧羊場に入り、アップ・ジョンズと、遊びに来ていた横浜税関のお雇い外国人ラッセルに傷を負わせた。
特にアップ・ジョンズは重傷で、手術の件で李仙得より希昌経由で大隈重信に善処を要求した。(公文書館に記録あり)
その後、大久保利通亡きあと内務卿になった伊藤博文に希昌が報告した手紙に対しての博文よりの希昌宛てのお礼の手紙である。
その後、アップ・ジョンズは契約期限前に松方大臣にお願いして、大金を貰ってアメリカへ帰った。
明治7~8年にこの話が、お雇い外国人のアメリカ人リジェントル(和名:李仙得)経由で話がまとまった時、平井希昌が契約の条件等を大久保利通との間に入りまとめた。(国立公文書館に記録あり)
利通より希昌宛ての手紙があり、その後、内務省勧業寮で下総牧羊場として羊毛原料確保の為スタートした。
その後、明治11年8月30日の深夜に3人組の強盗が、下総牧羊場に入り、アップ・ジョンズと、遊びに来ていた横浜税関のお雇い外国人ラッセルに傷を負わせた。
特にアップ・ジョンズは重傷で、手術の件で李仙得より希昌経由で大隈重信に善処を要求した。(公文書館に記録あり)
その後、大久保利通亡きあと内務卿になった伊藤博文に希昌が報告した手紙に対しての博文よりの希昌宛てのお礼の手紙である。
その後、アップ・ジョンズは契約期限前に松方大臣にお願いして、大金を貰ってアメリカへ帰った。

平井希昌 名刺

平井義十郎 名刺
歴代内閣総理大臣
賞勲局
明治6年9月16日伊国皇甥が明治天皇と飾隊式をご覧になった時以来、明治天皇の通訳も兼任していた。26年12月26日賞勲局を退任、翌日、持回り会議をもって弁理公司に任命され、アメリカへ日清戦争の解決のため、駐在する予定であったが、明治天皇の国賓来日が遅れていたのと28年8月に本人発病し、翌年29年2月12日亡くなった。
唐通事の家柄
戦国時代の中期以降、中国人が九州各地に来住、彼らが居住する町は唐人町と呼ばれ、 貿易で賑わった。しかし寛永12年(1635) 中国貿易が長崎港だけに限定されると、九州各地から中国人が続々と長崎に移住した。
このような中国人の中で、 特に住宅を持つことを許された中国人は住宅唐人と呼ばれ、日本人女性と正式に結婚することができた。
また、これら住宅唐人やその子どもたちの中で、長崎奉行より “日本人の姿” になることを許された者は、髪型を弁髪 (当時の中国人の髪形)から丁髷に、衣服も中国服から日本の着物に、さらには姓もたとえば林姓は林姓に、陳姓は潁川姓に、劉姓は彭城姓にそれぞれ改めたが、平野姓や西村姓のように母方の姓に改めた家もあった。これが投化、すなわち現在の帰化であった。
これら住宅唐人の子孫たちは、一部には前園家(始祖は徐前園)や藤田家(始祖は鄭一官)のように町乙名に任じられた家もあったが、そのほとんどが唐通事に任じられた。
唐通事の家は、70数家あったが、訳司九家と呼ばれた大通事4役職と小通事5役職、合計9役職は、名門中の名門とされた潁川家(陳冲一系)、潁川家(陳九官系)、彭城家(劉一水系)彭生家(劉焜台系)、彭城家(劉鳳系)、林家(林公?系)、林家(林楚玉系)、神代家(四郎左衛門系)などに独占されたほか、これらの家の子弟たちは10歳前後で稽古通事や小通事末席などに任じられた。
現に彭城友次郎(後の仁右衛門、劉一水系・本家)が天明元年(1781)稽古通事に任じられたのはわずかに4歳の時であった。
さらに、潁川和十郎(後の四郎太、葉姓本家)が安永2年(1773) に稽古通事に任じられたのは7歳、同3年(1774)小通事並に昇進したのは8歳の時であったが、このような例は、時代とともに増加する傾向にあった。
しかし、幕末になると、これら名門唐通事の家はそれぞれに事情は異なるが、林家(林公系・本家)、林家(林楚玉系・本家)、神代家(本家)、高尾家(本家)、西村家(本家)などのように、断絶や没落する家が多くなり、さらには役株の売買などが行われたこともあって、名門の分家や家格の低い家の唐通事たちがその要職を占めるようになった。
特に周文次右衛門や彭城清八郎(劉一水系、分家)、清川源十郎(張三峰系)、林三次ゆりゅう
郎(林公系、分家)、游竜彦次郎(游竜雲蔵系、彭城家分家)、李平三、平井義十郎などは、通事目付(助)や大通事などに任じられたほか、何礼之(何海庵系)は海軍伝習所通弁頭取に、平井義十郎は通弁御用頭取にそれぞれ任じられている。
このような中国人の中で、 特に住宅を持つことを許された中国人は住宅唐人と呼ばれ、日本人女性と正式に結婚することができた。
また、これら住宅唐人やその子どもたちの中で、長崎奉行より “日本人の姿” になることを許された者は、髪型を弁髪 (当時の中国人の髪形)から丁髷に、衣服も中国服から日本の着物に、さらには姓もたとえば林姓は林姓に、陳姓は潁川姓に、劉姓は彭城姓にそれぞれ改めたが、平野姓や西村姓のように母方の姓に改めた家もあった。これが投化、すなわち現在の帰化であった。
これら住宅唐人の子孫たちは、一部には前園家(始祖は徐前園)や藤田家(始祖は鄭一官)のように町乙名に任じられた家もあったが、そのほとんどが唐通事に任じられた。
唐通事の家は、70数家あったが、訳司九家と呼ばれた大通事4役職と小通事5役職、合計9役職は、名門中の名門とされた潁川家(陳冲一系)、潁川家(陳九官系)、彭城家(劉一水系)彭生家(劉焜台系)、彭城家(劉鳳系)、林家(林公?系)、林家(林楚玉系)、神代家(四郎左衛門系)などに独占されたほか、これらの家の子弟たちは10歳前後で稽古通事や小通事末席などに任じられた。
現に彭城友次郎(後の仁右衛門、劉一水系・本家)が天明元年(1781)稽古通事に任じられたのはわずかに4歳の時であった。
さらに、潁川和十郎(後の四郎太、葉姓本家)が安永2年(1773) に稽古通事に任じられたのは7歳、同3年(1774)小通事並に昇進したのは8歳の時であったが、このような例は、時代とともに増加する傾向にあった。
しかし、幕末になると、これら名門唐通事の家はそれぞれに事情は異なるが、林家(林公系・本家)、林家(林楚玉系・本家)、神代家(本家)、高尾家(本家)、西村家(本家)などのように、断絶や没落する家が多くなり、さらには役株の売買などが行われたこともあって、名門の分家や家格の低い家の唐通事たちがその要職を占めるようになった。
特に周文次右衛門や彭城清八郎(劉一水系、分家)、清川源十郎(張三峰系)、林三次ゆりゅう
郎(林公系、分家)、游竜彦次郎(游竜雲蔵系、彭城家分家)、李平三、平井義十郎などは、通事目付(助)や大通事などに任じられたほか、何礼之(何海庵系)は海軍伝習所通弁頭取に、平井義十郎は通弁御用頭取にそれぞれ任じられている。
欧南遣使考 (平井希昌の支倉常長に関する本)
1 明治9年 欧南遣使考(伊達政宗) 博聞社(岩倉具視の命令により調査した本)
2 明治15年 欧南遣使考(伊達政宗) 宮城活版所
3 明治24年 欧南遣使考(伊達政宗) 静雲堂
2 明治15年 欧南遣使考(伊達政宗) 宮城活版所
3 明治24年 欧南遣使考(伊達政宗) 静雲堂

欧南遣使考 表紙

欧南遣使考 表紙

万国勲章略誌

万国勲章略誌

万国勲章略誌 奥付
この本は平井希昌が賞勲局の秘書官、書記官として17年間に勲章関係の仕事に従事していた間、外国の王室や大統領に勲章を与えたり、また日本の皇室や政府の高官に外国の勲章を貰ったりしていたので、世界の勲章関係を整理した記録を明治28年6月に「万国勲章略誌」として出版した。日本国内では最初の勲章についての本である。

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