シーアイハイツ和光〈マンション〉の管理組合、C棟委員会、の、規約違反、及び、管理会社 伊藤忠アーバンコミュニテイ(株)の管理委託契約 違反からの刑事告発の数件の内、とりあえず、2件の告発準備が完了したので、気分転換に平井家10代平井希昌の写真を公開いたします。
「1」明治3年10月頃 京都知恩院前の堀内信重写真場で撮影されたコロ
ジオン・湿版アンブロタイプのガラスの写真、
人物は左端は土居道夫の兄、井上平八、中央は土居道夫、右端が平井
希昌です。
明治3年8月に大阪から神戸まで鉄道を施設するためイギリスの技術者達連れて大阪へ行ったとき、パークス公使を京都、奈良へ案内した時の日本人3人の集合写真と思われます。
古写真研究家の森重和雄、倉持基、高橋信一、先生方の鑑定です。
「2」 明治5年3月,希昌34歳の時、 東京、浅草 内田九一写真場
「3」明治12年 明治天皇御下命「人物写真帳」に掲載するために、撮った写真、
41歳の時 大蔵省印刷局写真場にて撮影
「4」明治18年天長節の時、撮った写真、47歳の時、東京9段坂 鈴木
真一写真場
「5」時期不明 大蔵省印刷局写真場で撮った写真
「6」明治27年3月9日 明治天皇大婚式典に出席した時の写真、56歳、
〈銀婚式〉東京?町 林武写真場にて撮った。
「7」当日、夫婦で出席した、私のひ祖母、武子の写真です。
明治天皇写真帳
明治11年(1878)に大蔵省印刷局に写真撮影場が設けられ、公の機関としての活動が開始されました。「人物写真帖」の制作は、明治12年、明治天皇が深く親愛する群臣の肖像写真を座右に備えようと、その蒐集を宮内卿に命じられたことに始まります。そして、宮内省主導のもと、大蔵省印刷局が撮影や写真帖の制作を担当し、この事業は始められました。現存するこの写真帖の総冊数は39冊、有栖川宮幟仁親王を始め皇族15方、諸官省の高等官ら4531名が収められており、そこには、幕末から明治維新にかけて、改革に奔走し、新政府の成立に尽力した人物に加え、各分野で日本の近代化を担った人々の姿があります。
明治11年(1878)に大蔵省印刷局に写真撮影場が設けられ、公の機関としての活動が開始されました。「人物写真帖」の制作は、明治12年、明治天皇が深く親愛する群臣の肖像写真を座右に備えようと、その蒐集を宮内卿に命じられたことに始まります。そして、宮内省主導のもと、大蔵省印刷局が撮影や写真帖の制作を担当し、この事業は始められました。現存するこの写真帖の総冊数は39冊、有栖川宮幟仁親王を始め皇族15方、諸官省の高等官ら4531名が収められており、そこには、幕末から明治維新にかけて、改革に奔走し、新政府の成立に尽力した人物に加え、各分野で日本の近代化を担った人々の姿があります。